2009.02.02

かげもん 『京都というまちを考える試み。』第12回 デモでできること

 私は半年間、大韓民国ソウルに暮らし、デモにしょっちゅう参加した。
2008年6月、ソウルでは毎日デモが行われ、中心部の道路はデモで埋めつくされた。アメリカ産牛肉輸入反対を叫んだ中高生から火がついた動きは、6月の段階で100万人の人々が街に出る事態となった。私はその盛り上がりのまっただ中へとびこんでいった。ここに記すような出来事を、人々は起こしうるし、私が体験してきた以上のことを、私たちは起こしうる。

 私はしばらくソウル中心部の信号と地下道の位置を知らなかった。
デモで車が通らないからだ。だから、10車線以上ある道といっても、車線という概念はなくなる。車道はデモにおいては単なる広場であることを実感する。新聞を敷いて道に座る。イカやつまみを売る屋台が出てきて、ビールを片手に道で飲むという行為も、デモの一部である。私もはじめて出会った人にビールをおごってもらいつつ、ビラを教科書にして道で韓国語の勉強をした。毎日のように機動隊とデモ隊のせめぎ合いによって、その道が車道なのか広場なのかが変化する。

 夕方から、ゆっくり暮れていく中で、ロウソクの火がすごくきれいに映えていく。めちゃくちゃテンポのよい闘争歌が、畳にすると10畳ほどのクレーンで吊られたスピーカーから流れ、ロウソクを持った手たちが左右にゆれる。
火をもっているのに、こんな揺らしていいのか、と思うほど揺らされる。歌の種類はとても多かった。最初に覚えた歌は「大韓民国は民主共和国だ」という、大韓民国憲法第一条条文にメロディーをつけた歌だった。日本国憲法第一条のへたれ条文を何度も考えさせられた。

 機動隊(本当は「戦闘警察」と「義務警察」という名前だが、煩雑になるので機動隊という言葉で統一する)の阻止線付近にいる人たちは、夜中になると放水をあびる。これがかなり威力のある放水である。とにかく痛い。放水をまともにあびると怪我をする。道は、昼間は車が通るのだが、日が暮れてから朝までは民衆の広場となる。地面は落書きされまくり、ロウソクのロウもたくさん積もる。ビラや新聞紙が散乱し、その上に機動隊が放水するから、もう地面はぐっちゃぐちゃである。さらに、機動隊はデモに向けて消火器を撒くので、空気まで真っ白である。消火器は何とも言えない味がする。

デモでは、バールで機動隊の装甲車の窓をたたき割る人や、デモ隊に向かって装甲車の上から金属片を投げてくる機動隊員。わけのわからない状態がたくさんあった。パチンコやレーザーポイントで機動隊をねらう人もいた。同時に、そのような行為をデモ内部でやめさせる人もいた。みな、臨機応変にうごきまわっていた。機動隊の装甲車にはロープをかけて、百人くらいで綱引きみたいに引っ張った。装甲車がずずずと動くと歓声があがる。装甲車の中にいる機動隊員を武装解除して、阻止線へと送り返す。どこかの消火栓をあけて、機動隊に逆放水している人たちもいた。長いホースが多くの人に支えられている。暴力といえば暴力的な雰囲気だったけど、わりと秩序だっていた。消火器が撒かれる阻止線付近へは、常に後方にいる人たちから水が手渡され、消火器で真っ白になった人たちが水をあびる。装甲車を引っ張る時は百人以上が綺麗に一列に並ぶし、武装解除した機動隊員を送り返す時も、数百人がスクラムを組んで人の海の中に道を創った。
ステンシルといって、スプレーを文字枠を切り抜いた紙に吹き付ける落書きをしている人もたくさんいた。「道を学校へ」と書いた標語は共感した。子どももチョークでいろいろ描いていた。道路標識やバス停はシールで埋まり、装甲車もシールだらけになった。装甲車にはデモ隊が登れないようにニスが塗ってあるので、普通の紙でもよく貼り付いた。装甲車に登るときは、誰が持ってきたのかわからないが、土嚢が積み重ねられ、即席の階段ができた。

 政府系新聞に抵抗する運動も盛んだった。朝鮮日報、中央日報、東亜日報は「朝中東」とまとめられ、「朝中東廃刊」のスローガンは高まり、朝中東に広告を出す企業の不買運動が盛り上がった。市民の直接行動が新聞の広告を減らした。6月が後半になると、朝中東は「デモ隊は暴力集団だ」というキャンペーンをひたすら張った。確かにデモは雑多で、よくわからない集団で、しかし「暴力集団」なんていう言葉ではまとめきれないデモだった。警察の過剰鎮圧の方が、批判されるべきなのに、むしろ、朝中東は、デモにどう対応していいのかわからなくて、雑多なデモに対しておろおろするばかりで、さしあたりデモに対して逆ギレしているとしか感じれなかった。しかし「暴力デモ」という政府のキャンペーンに抵抗するように、仏教界、キリスト教界の人々がデモをはじめた。お坊さんが昼間から道にびっしりあふれ、紙コップに赤い紙を貼り、蓮の花風の手持ち用ロウソクが手作業でつくられ、飛ぶように配られた。のちのち、デモ関係で指名手配された人たちは、ソウル市中心部にある寺に避難しテントを張ることになる。

 デモは、6月10日をピークにして、だんだんと数字的には少なくなっていく。8月5日のブッシュ来韓時と、8月15日のデモは、デモ参加者かどうかに関わらず逮捕されまくるという事態になった。放水の水は色水になり、それが付着した人は片っ端から逮捕された。私も走り逃げまどった。
いきなり機動隊が走ってきて、逃げ遅れた人を捕まえる。それ以降、デモ行進までするようなデモはだんだん少なくなっていった。もちろん個別個別のテーマでは継続していたが、狂牛病を大きなイシューとするときは、「集会」という形式に留まっていく。しかし同時に、それぞれの地域で、小さな集まりが定期的にもたれるようになっていく。たとえば弘益大学前の公園では、水曜日ごとに野外上映会と討論というような集まりがもたれていた。そこには20名ほどの人が集まり、だからこそ丁寧にしゃべってみれることができた。

 デモの発火点になった中高生たちへは、「あれだけ大きなデモをしたのに政治が変わらなかったと落胆している」という意見もあった。だが、私が出会った中高生たちは、私なんかよりよっぽど冷静に社会を見ていたし、でかい組織に左右されずに自分たちの語る場を創出していた。でかい組織がいうような、国会局面での政治を変えることももちろん重要なのだけど、もっと根本的に、その場にいた私たちの生き方がお互いに変えられていった、可能性が見えた場所を、ともにつくりだしたことが、より重要だ。普段では想像できない出来事を引き起こしたのだし、朝がきても眠くなかった。ただ、デモをして国会政治が変わったとしても、それだけで自分の目標が終わってしまうのはとても空しい。その感覚を、私が声をかけた高校生は聞かせてくれた。
「デモを自分たちが表現する場にしていきたい」、「大きな集会にも出るけど、やりたいことができなくなるから大きな集会の前に自分たちで小さな表現の場を持ちたい」とかれらは私に言った。むしろ、デモがだんだん大きくなって、自分たちのやりたいことがだんだんできなくなってきたらしい。

私は日本へ帰ってきてから、1月10日に緊急の呼びかけのもと、大阪で行われたデモに出て行った。ガザへの攻撃を止めろ!というデモであり、500名の人々が集まった。私たちが訴えたことは、この戦争をイスラエルにやめさせること「だけ」ではない。それだけではなく、イスラエルへパレスチナ自治区の封鎖をやめろということであり、「虐殺」とも呼べる武力攻撃を起こしてしまった、いかにも平和なこの社会への訴えだ。
デモはただお客さんとして寄せてもらうものではなく、自分たちの未来を表現する場だから。

 最後に、60年代におそらく京都で書かれたひとつの文章を紹介する。

「議会制民主主義をまもれ、といったかたちで日本中に怒りがまきおこっても、たいしたことはなかろうが、それより問題なことは、そんな怒りのまきおこる条件が、もうないことなのだ。誰も、いまさら多数党の暴挙とかその是正とかを、まじめに気にしちゃあいないのである。
スローガンC。「日本中に笑いがまきおこった!笑いつぶせ、議会政治を!」」
(野村修、「敗北デモの呼びかけ」)

かげもん 2009年1月記 (PeaceMedia2009年2-3月号掲載)
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