2009.05.16

『「労働」に抗する身体』 ハギハラカズヤ 
第7回 青い鳥

 私とは何か。
寺山修司が死ぬ間際に谷川俊太郎に向けて問いかけたのは、私という存在の謎についてだった。二人の詩人は「私は~」「私の~」という言葉だけの詩を、互いに送りあう。寺山は「僕は日本人」「僕は男」と属性を連ねたあと「どれが一番正しいのか決めかねているのが僕自身というわけか」と言い、谷川は「これは私のメガネ」「これは私のお金」と所有物を連ねたあと「私は誰でしょう、これは私の詩ですか」と応えた。

 大学の新入生向けの授業を担当していたとき、ぼくはこの、「私は~」というフレーズを用いて「私についての十か条」を書かせたことがあった。思春期の内面には、生きることへの欲求や葛藤、私という存在が、年老いた二人の詩人とは別様に映っているのかもしれないとの期待があったからだ。

 ぼくはまた、中学生にもこの教材を使って詩の授業をしたことがあった。私とは何か、私を成り立たせている条件は何だろう、この問いかけが十五歳の彼らにどう届くのか楽しみだった。

 すると面白いことに、大学生の描く「私」と中学生とでは、大きな違いがあるのに気がついた。大学生が性別や社会的役割、趣味や関心事から自画像を描こうとしたのに対して、中学生は「人に気を使う」「やさしい」「臆病」「天才」といった言葉を用いながら性格や内面ばかりを言葉に表した。社会化されない自我とでも言えるだろうか。彼らの言葉は、社会化されず不安定なままの自己をすくい取ろうとしていた。

 しかしこの課題を完成できなかった生徒も半数近くいた。大学生ではなかったことだった。ぼくや生徒は、言語表現が感情や内面を写し取るための単純な「鏡」でないことに、図らずも突き当たった。

 「私は~」と書きつけたノートを前にする学生や生徒に、ぼくは「詩とは何か」を問いかけた。詩が私という存在を問うものだとするなら、いま書いた言葉は詩だったのではないのか。いま最も悩んでいること、苦しんでいること、悦びや悲しみの在処を、詩は指し示す。だからこそ言葉がゆらぎ、消え去り、出会いもする。こうしてぼくたちは詩が始まる場所に立つ。

 詩の授業はいつもこんな風だから、楽しかった。しかも授業の後は、自習室の本棚に手を書け、詩集を読む生徒たちの姿にたくさん出会えた。なかには授業中に朗読するぼくの姿を真似て、お気に入りの詩を大声で読みあげる生徒もいた。恋愛、友情、人生、戦争、労働、酒…、人間をうたういくつもの詩が小さな教室なかで交錯し合うその時間が、ぼくは本当に好きだった。

 塾の生徒が卒業する日、ぼくは自作の曲に詩を書いて贈ることにした。

「青い鳥」   ハギハラカズヤ

窓の向こうに見た景色を
真っ黒に塗りつぶした日は
ひとり 夢を見てた
誰も知らない場所で

閉じ込められた青い鳥が
渇いた声で泣きはじめた
ひとり 空を見上げ
自由を歌っている

小さな穴を壁にあけて
朝日が差し込むようにしよう
ひとり 傷ついてた
夜が過ぎるように

翼を折られた青い鳥が
大空に舞う夢を見てる
ひとり 羽ばたいては
見えない明日を探して

眠れない夜をかぞえ 僕らは生きている
だから今夜は ふたりで語ろう

 穴があけられた壁、落書き、壊された備品の数々…、この一年で教室はボロボロになっていた。その傷の一つひとつが、自己を手にするたたかいの跡を想起させた。

 十五のころ、ギターをはじめて手にしたぼくは、がなり声をあげて歌をうたった。学校や家庭や社会には、ありのままの自分でいられる場所がなかった。書き連ねた詩を大声でうたったのは、その場所を抉じ開けたかったからだ。ボロボロになった教室を見ると、十五のぼくが歌と出会ったときに覚えた感情がよみがえった。思春期の葛藤が、過ぎ去ったぼくの思い出と重なって見えた。

 詩が「私とは何か」を描くとき、心のなかに他者が棲まう場所を開けるのではないか。高く聳える壁を突き抜けて、他人の人生が注がれる。そのとき「私」は、誰のものでもない空っぽの器のことを指すだろう。生徒たちとつくりあげた詩の授業の結論は、それだった。

 5月22日、京都で行われるFOR GAZA企画に出演し、「青い鳥」をうたう。今度はそこに、壁のない明日を夢見るガザの人びとの希望を重ねてみたい。
http://gazaevents.blogspot.com/

ハギハラカズヤ 2009年4月記
(PeaceMedia2009年5-7月号掲載)
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