『「労働」に抗する身体』 ハギハラカズヤ 第3回 後悔
塾の夏期講習が終わって間髪をいれず、地域の公立中学校で教育実習をしてきた。
実習をした学校は、世間からしんどいと言われてきた。貧しい家庭の子どもが多く、学力的にしんどいだけではなく、学校に馴染めないまま社会に出なければいけない子どもがたくさんいる。だからこの学校で生きる人間たちはみな、「非行」や「不登校」と呼ばれた生徒の内面にある苦しみと向き合ってきた。それは終わりのない闘いの日々だった。
わずかな実習期間のあいだにも、社会の様々な矛盾をたった一人背負いつづけてきた子どもたちの痛みと、何度も立ち会った。ぼくはその度ごとに、自らの幸福を願い、信じあえる仲間を求め、必死に生きている彼らの表情にぶつかり、言葉を失った。
学校は言葉を分かち合う場所でなければいけない、と思う。学びたいという生徒がいて、教えたいという先生がいる。その関係が、権力的なものであっては絶対にいけない。誰かが発した言葉を受けとめるということは、自分自身を未知のものへと変えることであり、互いの存在を認め合うことだ。互いを許し合い、生きていくことだ。だから「わたしはこのまま生きていていいんだ」、そう思える場所こそが学校でなければいけないと、ぼくは思っている。
だが現実の学校はそうではない。受験勉強がある。校則というルールの押しつけがある。教師は生徒に権力的に振舞う。学校は、互いを互いの敵として出会わせ、競わせる場になっている。「今のオマエはダメだ」、存在の否定から始まる教育は、教師の期待通りに生きようと努力する子どもの恒常的な不安と、纏わりつく現実を「別にどうでもいい」とシニカルに受け流すことで生きのびようとする子どもの悲壮感を生み出す。これが、日本の学校教育の陰鬱な実質だろう。
大人になってから眺めた世界も、子どものころに学校のなかで感じたものとほとんど変わらなかった。仕事で使えるか使えないかによって人間の存在価値が計られる。「今のままではダメだ」と言われないために、周囲の期待にこたえようと苦闘する。座っているイスが他の誰かに取られないように、隠れた努力を強いられる。足を引っ張り合い、いじめ、ただ自分の不安を払拭するために、誰かをこのゲームからふるい落とす。だからぼくたちの過去には、踏みしだかれた厖大な人間の痛みが横たわっている。
中学一年の国語教科書には、『おとなになれなかった弟たちに…』という物語が掲載されている。太平洋戦争のさなか、徴兵で父のいない家族が疎開中に生まれたばかりの子どもを栄養失調で亡くしてしまう。作者の米倉斉加年が、少年時代に体験した出来事が下敷きになっている。実習のなかで、ぼくはこの作品を教材に選んだ。
母は、よく言いました。ミルクはヒロユキのご飯だから、
ヒロユキはそれしか食べられないのだからと――。
でも、僕はかくれて、ヒロユキの大切なミルクを盗み飲みしてしまいました。それも何回も……。僕にはそれがどんなに悪いことか、よくわかっていたのです。でも、僕は飲んでしまったのです。
僕は弟がかわいくてかわいくてしかたなかったのですが、
…それなのに飲んでしまいました。
満足に食べることができなかった少年に、弟のミルクは甘い誘惑をあたえる。こっそり飲んだミルクの忘れられない味と、弟の唯一の食糧を奪った深い後悔。ヒロユキの死が栄養失調だったことを知るぼくたちは、この言葉が「弟を殺したのは自分だ」という罪の自覚を語っているのに気がつくだろう。生き残った自分が弟の死によって贖われた時間を生きていることに、少年は苦悩しつづけるのである。
置き去りにした過去の記憶の一片には、切り捨てることでしか自分を生きのびさせられなかった他者の影がつきまとっている。物語が戦争によって失った無数の死者に向けられた悔恨を描いていたなら、ぼくたちもまた学校の勉強やいじめという生存競争の暗い現実の奥に、無数の「死」を抱え込んでいまを生きている。最愛の人との別れや死、仲間への裏切りと不信。そこではいつも、「わたし」の幸せと引き換えに傷つき、苦しんだ誰かの「死」といやおうなく出会わされる。言葉を解すことなく死んでいったヒロユキにごめんねと言えなかった少年のように、「わたし」もまた、他者を踏みつけにして生きのびようとした存在なのかもしれない。そうして自分もまた苦悩しはじめる。
この行き場のない痛みを後悔と呼ぶならば、もはや取り戻しえない「あの日々」を繰り返し生きつづけるのを意味するだろう。あのときの「あなた」の笑顔が、いまは岩のようなごつごつした触感で疎ましい現実をかたどる。ああすればよかったと、後悔はただ、過去を問い直す言葉を探しつづける。いまを生きるのは「あの日々」を最初からやり直すことであり、「わたし」はそうして、ひしゃげた希望を手に取り直す。「あなた」とともに生きたいと願った日々を、未来へとくべるために。だからこそ『大人になれなかった弟たちに…』は、平和への希求を自らの後悔から語り起こすのだ。
教室で子どもたちと対話した時間は、生きることを必死に求めた十五のころのぼく自身を、もう一度生き直すことでもあった。先生というのは、物語の少年のように、誰かの「死」の先を生きてしまったもののことなのかもしれないと、九月の日々は教えてくれている。
【編集註】
『おとなになれなかった弟たちに…』(著者:米倉斉加年 よねくらまさかね)は、光村図書出版・中学1年の国語教科書に収録されています。
市販されているものでは、偕成社の絵本(1050円)、または
『多毛留;おとなになれなかった弟たちに…』(偕成社文庫735円)
で読むことができます。
(PeaceMedia2008年10‐11月号掲載)
Tags: 労働
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