2009.02.02

「ソウルのおばちゃん」 Union Extasy リレーエッセイ 第4回

 ある日、わたしはソウルにいた。謎の東洋人として。急な坂の道沿いにあるその店はまだ あった。このあいだは、坂の上のほうにあったが、もうかったかららしく、より人の来易い場所へと移動してきたらしい。おばちゃんはわたしのことを覚えていた。「いらっしゃい」と、陽気に話しかけてくるおばちゃんは、心なしか、以前に会ったときよりもきれいになっている。

 韓国のビールはまずい。だからマッコリを頼む。「なにがたべたいですか?」。玉子焼き、といったら「チヂミはどう」と返された。お勧めらしい(でもあまりおいしくなかった)。

 頼んでも、チヂミはなかなかでてこない。陽気なおばちゃんとは別の、むすっとしたばあさんが奥で、淡々とチヂミをつくっている。このばあさんがひたすら料理をつくっているようだ。

 ではおばちゃんはどうか?時間がたってふと気付くと、われわれの隣の席で、いわくありげな関係があるらしき男性と、物悲しそうな顔をして話し込んでいる。さきほどまでの陽気な雰囲気はない。しかも、「この曲がいま流行っているのよ」といってわたし達に聞かせてくれた音楽が、ひたすらエンドレスにかかっている。客がどんどん帰っても、おばちゃんたちはひたすらなにやら話している。机の上にならぶビール瓶の数が10本を超えているようだが、会話は終わらない。いったいどうしたことだろう?

 とうとう、当の男性はかえってしまった。おばちゃんもどこかへ行ってしまった。むすっとしたばあさんは、午前三時を過ぎてもまだ帰らないわれわれ酔っ払いを恨めしそうに時折みている。

 よく考えてみるとおばちゃんは、われわれ客へと愛想をふりまいていただけで、あとは客と同じように飲んでいた。それも店のお酒を、である。だからといってこのおばちゃんがいなければ、この店はどうだろう?あのむすっとしたばあさんだけでは客はあんまり来ないのではないか。じっさい、おばちゃんが帰るや、客はわれわれ以外いなくなってしまった。おばちゃんは店にとっては欠かせないのだ。じっさい、おばちゃんの気の遣い方は尋常ではないが、だからといって、それは自分が飲みながらついでにやっている、というようにも感じられる。

 このひたすら飲み話すということは、店にとってはどういうことか?雰囲気作りとかそういうことにくわえ、客へと、もっと飲もうという情動をかきたてていくということもあるのではないか?つまり、需要を創出するのだ。これにより、生産者であるばあさんの供給物も売れることになり、店の収益がますます上がる。おばちゃん自身こんなことを考えているかどうかはわからない。たまたまその日、ただ飲みたかっただけなのかもしれない。それでも、飲もうという情動をかきたてるという観点からいえば、これもまた、労働なのだろうか。最近よく耳にする情動労働ということか。なんでもかんでも労働に還元するのはどうかとおもうが、それでも、店にとっては必要なことであり、その限りでは無駄ではない。ただし、おばちゃんは、とにかく自然体であった。いずれにせよ、今の日本ではなかなか見ない光景だったようにおもう。再開発がすすむソウルでも、見られなくなるのだろうか? (文:久保田三郎)

京都大学時間雇用職員組合
Union Extasy
http://extasy07.exblog.jp/

文:久保田三郎 (PeaceMedia2009年2-3月号掲載)
(*組合員&関係者のエッセイを掲載しています。)
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