2006.07.25

かげもん 『京都というまちを考える試み。』第2回 自転車

 京都というまちは、やたらと自転車が多い。繁華街や駅、大学などに行けば、いたるところに自転車が止まり、車道においては我物顔で自転車が駆け抜ける。京都に住む人は毎日自転車を目にし、あるいは毎日乗っている人も多いことだろう。

 私は大学進学を契機に京都に住むようになった。それまでは電車や徒歩で移動することが多かったのだが、京都へ来てからは、もっぱら自転車である。毎日毎日ひたすら自転車をこぐ。電車にはさすがに勝てないが、バスには勝てる自信がある。

 おどろくことに、京都という街は坂が多い。国土地理院発行の2万5千分の1地図を見ると、街全体に等高線がコンスタントに引かれている。海沿いの街に育った私としては、街中にこれほど坂があることを予想していなかった。そして「京都は盆地である」という先入観は、簡単に覆された。私の京都生活は、新入生としての緊張感があった4月が終わると、一気に坂を意識する生活へと変わった。
 しかし坂の意外なキツサは、下り坂を走ればすこぶる爽快である。私の自慢できる記録を少し書いてみると、立命館大学の東門から京都大学の百万遍まで、15分で今出川通りを駆け下りたことがある。

 また、言っておかなければならないこととして、京都の街に、いわゆる「迷惑駐輪」の自転車がたくさんあるという事態である。 幸いにして私は自転車を行政に盗まれたことは無いが、行政が自転車を盗むという行為が正当化され、様々な撤去が行われていることは残念な事実である。

行政の行為を正当化することはできないが、確かに止めてある自転車が歩行者にとって邪魔なものになってしまっている。しかしそれは、私たちが自動車社会から脱出できていない証拠でもあるのではないかと思う。

ただでさえ道が狭い京都でこれだけの自動車が通行している意味はあるのだろうか。もちろん自動車は社会において必要なものだ。救急車にお世話になったこともある私は、ベットに寝かされた状態でのスピード感に安心を与えられた。だが、本当に問わなくてはならないことは、自転車や徒歩で済ませることができるはずのことまで私たちは自動車に頼っているのではないだろうか、ということである。

 タバコの煙の毒性がたくさん議論される中で、車の排気ガスはどれだけ議論されているだろうか。私たち自ら、自動車を降りて自転車を止めるスペースをつくっていけばいいのだと思う。そしてさらに、実は環境派の移動手段である自転車を、今こそ取り返す時である。

 京都は単なる盆地ではなく、適度な坂があり、自転車に乗っていて楽しいのだ。その起伏を、地を這うようにしてその起伏を味わうことから、京都を捉えなおしたいと私は思う。

(C)かげもん 2006年7月記 (PeaceMedia2006年8-9月号掲載)
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