2008.08.26

『「労働」に抗する身体』 ハギハラカズヤ 
第2回 Exit Music

 勤めている塾が夏期講習の最中なので、朝から晩まで仕事に追われる日々をすごしている。働きづめのぼくもぼくなのだが、毎朝早くに通ってきては、夜遅くまで残って勉強しなければいけない受験生たちのひどくやつれた表情も、見ていてつらいものがある。

 十代のころ、ぼくは勉強や学校から何とかして逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。毎日は楽しかったが、変化のない日常の退屈さに追い詰められてもいた。高校、大学、就職…。人生は競争の連続で、いまと変わらぬイス取りゲームが、ぼくたちの未来を束縛している。イスに座れない人間が自分でないことだけを祈って、勉強しつづける学歴社会に疑問を感じているのが、ぼくだけなのではと不安を覚えた。周りの世界を信頼したいと願えば願うほど、小さなことが疑わしくなり、あせり、孤独や絶望が高まっていった。逃げ場を探していたのは、そんなときだった。

 それがいま、疲れきった彼らを前にして「逃げてもいいよ」と口では言えても、彼らのための脱出口を用意できない自分がいる。そのことに激しいいらだちを覚える。ぼくは一緒に逃げ場を探すべきだったのかもしれない。自由に生きたいと願うささやかな「夢」が、商品として切り売りされる悪夢のような世界から、抑圧が生んだ弱いものへの暴力と軽蔑の眼差しが支配する世界から、ぼくたちはともに逃げるべきだったのかもしれない、と。

 親友を裏切りいじめた過去を持つぼくの塾の生徒は、そのことに傷ついてきた。彼女はもう誰も信用できないと言いながら、その不信を自分に向ける。そしていま、一人も傷つけることなく、自分を知る人間が誰もいない世界を夢見ながら、必死でこの苦しみに耐えている。

 彼女一人の話ではない。地方の工場での不安定な生活に希望を見出せず、罵声といじめの数々をじっと耐え、世界への憎しみを募らせた秋葉原事件のKも自分を追い詰め、傷つけてきた。Kの気持ちが分かる、と生徒たちは言う。この悲惨は、ぼくたちのうえに等しく襲いかかった現実ではないだろうか。

 たとえば塾業界は、子ども向けに自己実現やコミュニケーション能力を養成する講座を取り入れ始めている。自分はどんな人間なのか、何になりたいのか、それを実現するために何をすべきなのか。子どもたちは自分の商品価値を高めようと必死になっている。それは現在の労働世界と相似形だ。

 いまどれだけの人が仕事を楽しいと感じているのだろう。あと一人、職場に仲間がいれば起こらなくてすんだ失敗が、「わたし」の能力不足のせいにされる。大変なときにこそ自分の力が試されている、そう思いながら自身をとことんまで追い込み、顧客満足度を高めようと努力する。失敗の原因は会社にではなくサービスを提供できなかった「わたし」自身にあると言い聞かせ、悩みも愚痴もそっと胸にしまいこむ。いや、そもそも仲間がいない。心置きなく語り、笑いあえる仲間と言葉が存在しない。業績評価が成果主義的なシステムに一律化されるなかで、誰もがほんとうの友人に思えなくなる。同じ仕事をしているのに、誰も自分の気持ちを分かち合ってくれないのではないかと、疑心暗鬼になる。そうして身体はいまいる場所でただ一人、壊れるまで闘うことを強いられるのだ。

 生きるために逃げる、一人では生きられないから逃げる。生きることが幸福や悦びを求める闘いであるとするならば、ぼくたちは逃げることで最初からその闘いをやり直すだろう。この世界の片隅にある静まった避難場所で、「わたし」という荷物を降ろし、ぼくたちはもう一度すべてをやり直す。

目を覚ましてくれないか
きみの涙が乾いていく
今日、ぼくらは逃げる
ぼくらは逃げる
仕度をするんだ
きみのパパが気づかぬうちに
地獄のような世界が襲いかからぬうちに…

 (Radiohead「Exit Music(For A Film)」
 『OK Computer』1997年より)

トム・ヨークのささやくような歌声は、自分を縛りつけている闇のような現実と絶望感を浮かび上がらせる。はたしてここに描かれるのが、ロミオとジュリエットのような恋の運命なのか、ぼくたちが生きる絶望と不信に充ちた資本主義社会の労働の現実なのか、戦争や迫害から逃れようとする亡命者の呟き声なのか、そのいずれでもあるだろう。だが、ささやく声は、烈しい叫びに変わる。周囲の冷笑を耳にしながら、凍えた身体を温める音楽は、やがて不穏な響きを聴かせ始める。

We hope your rules and wisdom choke you
(ぼくらはお前たちが自らの秩序と知によって窒息するのを願う)
Now we are one, in everlasting peace
(ぼくらは一つだ 永遠の平和のなかで一つだ)

詩は、weとyouのあいだで揺れつづけている。
ここでは恋人だったはずのyouの指示対象が、権力や秩序へと、その意味内容を変えている。いや、トム・ヨークは詩の意味を変えたのではなかった。「わたし」のうちにある権力や秩序の存在を、権力や秩序と分かちがたく結びついてしまった「ぼくら」という存在を、彼ははっきりと自覚している。だからこの詩は「ぼくらはぼくらが自らの秩序と知によって窒息するのを願う」とも叫んでいるのであり、everlasting peaceという死の予感を漂わせるのだ。

レディオヘッドが歌うのは、避難場所を喪失したぼくたちの世界の現実だ。「わたし」という存在の、そこに纏わりついた権力や人間関係の鎧をそっと脱げる場所、ぼくたちが望むのはそんな場所である。

ハギハラカズヤ 2008年8月記
(PeaceMedia2008年9‐10月号掲載)
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