2007.04.25

かげもん 『京都というまちを考える試み。』第7回 
デモと屋台

 都市的な風景に欠かせないものは、屋台である。屋台のない街は歩いていて面白みをあまり感じない。建物に収まりきらないエネルギーが屋台の存在にあらわれる。地球上どんなところに行っても、そこには屋台があるはずだ。
 それはさておき、警察は基本的に無秩序を許さないが、都市はある種の無秩序によって秩序だっている。屋台とは基本的に「留まらない」ものであり、建物に「収まらない」ものである。

 銭湯や商店街などが、昭和ブームなどによってオシャレさをかもし出す雑誌に掲載されることが多い。しかし、そこには無秩序を愛するという視点が抜け落ちている。最近思うことは、無秩序という空間が一番秩序だっているのではないかということだ。逆説なことで、例証などはまだできないのであるが・・・。

 つまり、道を屋台が確実に占拠して、道が狭くなっているのであるが、それでも人間は通り抜けるし、自転車も通るし、車も人を避けて通っている。確かに大量輸送をする上では無秩序は邪魔だし、大きな道がなければトラックも走れない。そこで屋台は存在することが邪魔になる。秩序だった空間、やたらと広い道、それを無理やりつくりだすのであれば、そこは空疎な空間になる。遠回りをする経験は、人間にとって必要である。
 そして、デモは路上を占拠するし、交通を遮断する。ある意味で邪魔になる。そのことによって人々にアピールすることができる。
デモ隊が車線を埋める。

 デモと屋台が出会った。それが3・18のデモだった。
屋台にはオデンとお茶・コーヒー、おかしが並べられた。
その日は寒く、オデンは完売した。

 根源的にデモと屋台が出会う意味を、考え直す必要があるのかも知れない。警察の屋台への拒否感は信じられないほど強かった。しかも、冷静に対応するのではなく、説明らしい説明はなく、「ダメだからダメ」論で、話し合いではなく挑発で屋台を拒否した。なぜなのだろうか。

 京都というまちは、平安京として成立していらい、植民地を獲得し、常に拡大しつづけてきた日本の都だった。最近では「日本に京都があってよかった」というメッセージを発し、一人勝ちをすすめる東京に対抗しようとしている。
 だが、屋台がないまちにはエネルギーが無い。建物から溢れるエネルギーを建物の中に押し込めようとする景観条例も可決された。人々の自律的な動きは押しつぶされている途上である。空疎な空間が広がっている。警察が何の説明をしなくてもいいくらいに、まちは沈静化している(事実、デモの時、警察官は、なぜ屋台がダメなのかについてキチンと説明できなかった)。

 しかし、常にこれは問題提起としての結論なのだが、京都というまちで、屋台とデモが出会ったことは事実である。私はその可能性を過剰なほどに考え抜きたい。その可能性とは何なのだろうか?

(C)かげもん 2007年4月記 (PeaceMedia2007年5月号掲載)
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