2007.01.07

かげもん 『京都というまちを考える試み。』第6回 
書評『PACE』第2号

 前号のピースメディアでも紹介されていたが、
『PACE』第2号という雑誌が手元にある。京都界隈で様々な社会運動に取り組んでいる人たちが寄稿している雑誌である。ゆるい文章から、かちっとした文章まで、詩から論文、座談会などがたくさん詰まった雑誌である。以下に無理やりの感はあるが、この雑誌の書評をしてみようと思う。

 発行したのは、立命館界隈のPACE(パーチェ)という繋がりである。
(ちなみにPACEとはイタリア語で平和という意味である。)

 PACE とは、雑誌『PACE』第2号によると、
「立命の学生や院生たちによって同時期(〔2004年3月のイラク戦争一周年〕)に結成され、当時政治課題になっていた自衛隊イラク派兵と有事法制をめぐって学内での行動を起こして」(77頁)いったことからはじまった繋がりである。定期的ではないが、このような雑誌を何度か発行している。実は私も、『PACE』創刊号に古本屋論を寄稿している。

 書評をしようと思う。この雑誌の中で一番インパクトのある文章は、
何といっても村人の「政治的失恋の責任を問う」だろう。雑誌の最後尾を飾るにふさわしい文章であるばかりか、文章の構成がとても独創的である。おそらく、これからもこの構成があらわれることはありえないだろう。むしろ、今度同様の構成があらわれるとしたら、それは剽窃になるのかも知れない。
もちろん、文章そのもの自体も名文であると思う。

 「反戦と生活をつなぐもの」という対談では、ワンルームマンションの壁をぶち壊そうという、超積極的提起がなされている(84頁)。こんなことを考えている人が京都にいると思うと、なんだか楽しくなる。

 また、特集が明確に打ち出されていて(GIDと医療、労働)、
立命館という視点を含ませながら諸論文が掲載されている。語学講師たちの座談会では、立命館の残酷な労働条件が浮かび上がると同時に、大学で学問している場合じゃなくなっている現状(嘱託講師は研究ができない!)が示しだされている。もちろん立命館だけの問題ではないが、アジアで最も注目されるネオリベ支配の大学が京都にある意味を考えなければならない。

 『PACE』の今回の試みや、この雑誌をめぐって色んな人と喋ったことから、私が考えるのは、大学と労働の問題である。私は学生で大した賃労働をしていないので、あまりえらそうなことは言えないが、学生・院生は大学内でかなり労働している。しかし多くの場合に労働組合の存在が意識されることはなく、本当に妥当な賃金が払われているのかは甚だ疑問である。
 そのような観点を、ネオリベ統治下の立命館から発せられた雑誌によって感じるというのもおかしな事態である。社会に対して批判的であるべき大学内で、学生や院生、あるいは留学生の労働状態はどうであるのか?何かトラブルが起こったときに揉み消しにされていないだろうか?そのようなことを見つめていかなければならない。それは大学の意味や大学自治を考える際に、決して見落としてはならないと思う。

 雑誌のもう一つの特集である「GIDと医療」で、
私はそのような問題が立命館で取り組まれていることを初めて知った。不勉強ながらにも、自分の体の一部がもてあそばれるような感覚は、想像するにもしきれない。前号のピースメディアでも紹介されているので、詳細はそちらも参照されたい。

 この雑誌は、初刷が売り切れ間近だそうだ。
ぜひとも現物にあたってみてほしいと思う。時々立命館に行く私であるが、このような雑誌という形で初めて知ったことが本当にたくさんある。文章としてまとまったことを書く意味は、そのような点にあると思う。この雑誌を土台に、更なる議論ができたらいいと思う。

 というふうに、ここまで書いているが、私もまだ難しそうな論文は読んでいない。これからじっくり読もうと思っている。100ページを超える雑誌で、さらに字が詰まっていて、しかも値段が100円というのは、本当にすごい。

(C)かげもん 2007年1月記 (PeaceMedia2007年2月号掲載)
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