2007.05.17

『へいわ屋漫筆』第9回 
雑感(「俺は、君のためにこそ死にに行く」)

 読者の皆さん、こんにちは。日差しも初夏めいてきました。
年中行事ではないけど、平和イベントも多くなってきていますね。一回々を大切に参加され、またご自身の健康にも留意頂ければと思います。

 さて、ひと月ほど前、新聞を読んでいたら眼に飛び込んできた映画の広告がありました。戦闘機の前に数人の日本青年兵たちが、優しそうな婦人を囲んで笑っています。兵の一人は子犬を抱いて。
あー、また特攻の映画か。この構図見た事あるな。知覧基地だったな。何々、東京都知事が「総指揮」とな。この人の好きそうな言い回しやな―。自分の指す方向に、民草が一糸乱れぬ行動でなびくのがお好みなんでしょうな。
そう、『俺は、君のためにこそ死ににいく』の宣伝です。このタイトルが、へいわ屋店主の頭から一ヶ月間離れません。映画の内容に関してはまだ見ていないので何も言えませんが、タイトルになんでこんなに引っかかるのだろう。ふとした折に考える事を繰り返すうちに、色々見えてきました。

 まず「俺は~死ににいく」と、確信的、意思的に「死に」に「いく」ことを断言した映画のタイトルは珍しいのではないでしょうか。生命の、あるいは創造性の永遠の沈黙である「死」。ここに意気込んでむかうらしい様子を描く映画だということを、このタイトルから予想し、店主は空恐ろしく予感するのでしょう。
侠気や情がいかに溢れていようとも、その時点で思考停止している、危険な雰囲気が漂っていると思ったのです。

推測するに、タイトルの「俺」は兵士で「君」はその愛する人なのでしょう。
「俺」は「君」を大好きで大切で、守りたいのです。
でも、もの凄い困難な状況下だから、「俺」はもう死ななきゃ「君」を守れない環境になっちゃってるのです。「俺」だって死ぬことは嫌だ。
でも仕方なく「君のためにこそ!…」と納得できる理由を見つけて飛び立つのです。「君」の側もその「俺」の気持ちを汲み取り、「俺」へ万感の想いを馳せて悲しみを断ち切っているのです。

 でも、ほんとに無念は、悲しみは断ち切れた?無理ですよね。ずっと悲しいはずです。大切な人と二度と会えなくなって、それでも嬉しかった人なんていないでしょう。この状況ってとても不幸なことではないですか?なんでそんな困難な異常事態に陥ったのでしょう?
…それは戦争だったから!

 実はへいわ屋店主は太平洋戦争における「特別攻撃隊」(いわゆる特攻隊)の存在に非常に関心があります。理由はいくつもありますが、やはりその隊員たちと店主の歳は近いから、というのが根本的な理由です。
人生の経験値や感受性が、自分とそう違わなかったであろう彼ら。
80年ほど生まれる時期がずれていたから、彼らは死に、自分は生きている。時系列を無視した言い方で、論理的におかしいが「貴方たちを生き延びさせられなくてごめんなさい」とも、心のどこかで思い、会ったこともない彼らに語りかけています。

彼らは「自分以外に誰がやる?健康な若い肉体をもち、また学問を身につけた自分の、それは責任だ。」と考えたのだと思われます。葛藤しつつも、克己し決断するその姿勢やプライドは、店主も尊敬しているのです。
これは否めない。ただし、その行く末が、自分や他者の「死」であっては決してならないのです。若者の意気や力は創造的なことにこそ使われるべきだと思います。国家や権力が馬鹿な国策や力ずくで、その方向を「死」へと捻じ曲げることを許したくはないのです。

「俺」よ。よく聞いて欲しい。死んではいけない。
かけがえのない「君」がいるなら、なおさら。
「君のため」と「死ぬ」はつながれてはいけないし、「こそ」なんて言葉で飾られてはいけない。「俺は死ににいく」なんて状態を未然に防ごう。
それこそ「俺」が「君のためにこそ」するべき第一等のことなんだ!

 これが店主の持論です。当たり前の事だけれども。

(C)へいわ屋 2007年5月記 (PeaceMedia2007年6-7月号掲載)
第8回に戻る ≪ 「漫筆」 ≫ 第10回に進む

twitter

« | PeaceMedia HOME | »

Trackback URL

Comment & Trackback

Comment feed

Comment