『詩の生まれる場所』 竹村正人 第4回 詩誌
「詩は分からない、難しい」とよく言われます。そして、詩は庶民の生活に浸透しているとはとても言い難い現実があります。
しかし、本当にそうでしょうか。私たちは「詩」に対して、何かしらの固定観念のようなものを持っていないでしょうか。―――藤井わらび
ご存知ないかもしれないが、詩誌というものがある。紙面のほとんどを詩で構成する、詩の雑誌である。日本では詩それ自体がマイナーなので詩の雑誌が広く流通するわけもなく、よって詩誌があなたの目に届かないのことにも悲しい必然性がある。
おかしなことだが、詩の世界にも有名・無名があって、有名な詩人たちが集う雑誌は本屋に置かれたりもする。『現代詩手帖』ならば聞いたことはあるだろうか。あるいは『詩と思想』や『詩学』(最近廃刊)、『詩人会議』などもあるが、有名であるとはいえ一部の人たちの間での話だ。これら詩誌は参加するのに高い金がかかるし、閉鎖的である。有名が無名を抑圧し、詩の固定観念を作り出すのが日本の詩の今である。
もちろん小さな詩誌は他にもある。それらに出会うための機会として、例えば年一回開催される東京ポエケットや京都のポエムバザールというのがあって、ここでは30組くらいのブースにそれぞれの詩誌が売り出される。その中のひとつに、連載一回目にも触れた『紫陽』(しよう)という詩誌がある。『紫陽』の特徴は、これまで詩に触れたことのない人をも巻き込んで、創作し平和を訴えていくというコンセプトにある。多くの詩誌がもともと詩を書く人たちだけで作られており、また自身と社会との関係や詩と政治の関わりに無頓着である中で、これはキラリと光る極北の詩誌である。
もちろん、詩は孤独なものであってよい。ひとり自分のためにノートに綴る日々があってよい。ただ詩誌に意味があるとすれば、それは大切なものを分かち合える仲間と共に創作できる歓びであり、出会いであるだろう。
『現代思想』という、詩ではなく思想の雑誌が去年、12月に「戦後民衆精神史」という特集を組んだ。50年代の東京にあって工場労働者たちが共にしたサークル詩運動を扱っていて面白い。運動と詩が共にあるのを感じる。もちろん、詩を書き続けることには困難もある。壁にぶつかることもある。しかしその壁は、創作し始めたものへのご褒美なのだ。
えらそうなことを言う前に
まずかきたまえ
百万べん基本的に正しい方針を
しゃべりまくる前に
一つのことでよい
まず実行したまえ
方針は実行するためにたてられ
詩は書かれてはじめて詩になる平和擁護を斗つている
同志、
詩をかきたまえ!(高橋元弘「まづかきたまえ」より)
※冒頭は『紫陽』創刊号から、文末は『現代思想』(2007年12月臨時増刊号)から一部略して、それぞれ引用。
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