2008.10.12

『詩の生まれる場所』 竹村正人 第3回 読書

私は同じ年齢の誰と比べても、人生について多くを知っているとは思いませんが、話相手としては友人や恋人よりも書物のほうが頼りになるように思われます。小説や詩は独り言ではなく、作者と読者の会話であり、それは他のすべての人たちを締め出す極めて私的な会話、言うなれば「相互厭人的な」会話なのです。

―――ヨシフ・ブロツキイ

 追いつめられ、ひとりぼっちになった者たちが逃げ込む場所として、読書は存在してきた。子どもたちにとって、読書という部屋こそ、校舎や家庭の中で安心しておしゃべりのできる唯一の場所だった。ぼく自身もまた、小説や詩と出会ったのは、深く傷ついて過ごした暗い季節の中である。

 中井久夫という、精神科医だった人に「戦時下一小学生の読書記録」という小文がある。それによると戦争中、中学校は生徒に「小説を読むこと」を禁じていた。本との会話が、愛国教育の邪魔だったのだ。でもだからこそ「戦争の時、人は本に走る。戦いの合間でも、防空壕の中でも、いつ動くとも知れない列車の中でも、本は読める」と中井さん。きっと読書によってぼくらが救われるのは、そこで異なる世界を獲得できるからだろう。

 現代の中学生は自由に小説を読むことができる。だが図書室は意識から遠い。テレビからは求めなくとも娯楽がやってくるし、携帯やパソコンがあれば寂しくはない、そうだろうか。詩を書くことが創作であるように、読書もまた創作である。会話によって文字の余白に色を塗ることができる。しかしそれは本という媒体なしに可能だろうか。ためしに色えんぴつでなぞってみよう。ディスプレイは肉筆を受けつけない。

 ぼくにとって本を読むことは、創作する欲望の増大でもあるが、解消でもある。詩は、書かれなくてもよいのだ。読書の生む感動が、詩であると思う。だとすれば人が詩を書き始めるのはなぜだろうか。そこにはまたひとつ、大切な場所が生まれているはずだ。

私は価値のない人間である
十二才でそう考えた
私を必要としてくれる今も
そう思ったりする
平凡で虚しくて
私の人生は
どうして存在するのか?
私は、だから
言い訳のように
文字を綴っていくのだ
          1997・5・31

     (藤井わらび「小さな叫び」)

※冒頭はヨシフ・ブロツキイ『私人』(群像社、1996、800円)から、
中井久夫の小文は『読書のすすめ』(岩波書店、第4集、書店で注文すれば無料でもらえる)から、文末は藤井わらび『奇跡ではなくて~躁鬱病とのたたかい~』(私家版、2002)から、それぞれ引用。

竹村正人 (PeaceMedia2008年10‐11月号掲載)
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