2008.07.16

『詩という場所』 竹村正人 第1回

もしもこの世界の片隅に誰の眼も気にせずふっと休める場所があったなら、そこで仲間と語らい、痛みを分かち合う瞬間があったなら、ぼくたちはきっと自分自身が抱え込んだ問題を世界に向かって叫ぶ言葉を手にしていたかもしれない。「わたしの問題」は「わたしたちの問題」になりえたかもしれない。
―――ハギハラカズヤ

 今、生きることの<よろこび>を噛みしめている人がどれくらいあるだろうか。大切な仲間の声に全力で耳を傾ける人はどのくらいいるか。あらゆる「未来」がショーウィンドーに並べられてしまった今、ぼくたちが切実に求めているのは、傷つきながらも互いの生をたたえ合うような、そんな人間のにおいがする言葉だ。

 周囲が就職活動で動き出した頃から、ぼくは失語症に陥った。今まで熱く語り合ってきた友人を前にしても、分かち合うべき大切な言葉が見つからない。ひきつった顔に表れるのは、力のない冷ややかな笑みだけ。今から思えばそれは、自身への絶望と、他者への不信から来る身体の危険信号だった。就職・結婚・家族・責任、そんな言葉がぼくを追いつめた。当時の同棲相手が最大の脅迫者だったから、息をつくことのできる居場所さえなかった。大学には善良な先生と忠実な生徒がいた。みんな葛藤していた。でも、運動圏の仲間たちでさえ、就職か進学かという二者択一について本気で疑う者はいなかった(みんな脅迫されてた)。それ以外の選択は、「フリーター」という言葉で説明し尽くせるかのように、否定的に語られていた。言葉の貧困が未来を貧困にする。ぼくは今も自分を「フリーター」だと定義してないが、いわゆるフルタイムワーカーではない。でも毎日はキラキラと輝いている。それは多分、ぼくが詩に出会えたからだろう。

 詩は、「すきま」であると思う。「自己実現」、「わたしらしさ」、広告の言葉はぼくらの日常を意味で埋め尽くそうとする。ぼくらは溢れかえる言葉の海をあっぷあっぷしながら辛うじて泳ぐ。詩は、そんな意味の支配に抵抗してぽっかりと空いた余白の場所だ。そこでぼくたちは今まで考えもしなかった未来を手にし、新しい自分に生まれ変わる。それが、詩という場所の持つ力だ。難しいけれど、詩という場所は、もともとどこかに在るんじゃない。詩は、出会いによってはじめて生れるものなのだ。というより、「出会い」こそが、詩の生まれを名づける言葉だろう。そのような出会いが可能となるための、いわば「詩の生まれる場所」については、稿を改めて考えたい。

狭まっていく
生息域から
四角い空を
見あげては

まだ大丈夫。
と息をふく

宇宙のなかの
生物のなかの
わたし

     (かつきあみ「Space」)

*冒頭は『PACE』4号から、文末は『紫陽』15号から、それぞれ引用。
『PACE』については→ http://blog.livedoor.jp/pace_r/ 参照
『紫陽』については→ http://warabipoem.exblog.jp/ 参照

竹村正人 (PeaceMedia2008年7‐8月号掲載)
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