2006.05.31

かげもん 『京都というまちを考える試み。』第1回 「三月書房」論

 寺町二条にある「三月書房」という本屋は、京都に住む私にとって無くてはならない場所である。「三月書房」は新刊書店であるが、その本棚を眺めれば、大都市にある巨大書店には到底出せないであろう、濃縮された知的エロスを誘発する本たちに出会うことができる。小さな出版社の本から、倒産した出版社まで、一般的な新刊書店ではまず目にかかることのできない本が、店主の思考(嗜好)がうかがえる形で並んでいる。その本棚に私は圧倒される。
 そして私の周辺にいる人の話を聞くにつけ、私が「三月書房」に抱く思いは、多少は共有できそうな人が多いことにも驚く。

 おそらく、京都という地域において「三月書房」の果たしてきた役割は看過できるようなものではない。そしてこれからの京都を考える上で、「三月書房」のあり方は、一つのバロメーターになるであろう。いわば「三月書房」に人がいるということは、過大な考えと言われるかも知れないが、京都という町がこれからどのような町に変移していくかの、大きな可能性を秘めた事象であろう。

 河原町通りにある、大きな書店が閉店すると同時に、新たな巨大書店が河原町通りに生まれた。そのダイナミズムは河原町通りだけで考えられるべきではなく、町の小さな本屋、あるいは古本屋の再編として見られるべきである。その視点から見ても「三月書房」が生き残っている、そしてこれからも生き残っていくだろう、あるいは生き残っていてほしい、と思う私の気持ちは少数派ではない、ということは京都の「おもしろさ」の可能性となるだろう。

 一つの複雑さを含んだ町の要素は、大きな資本によって、簡単に壊される。それは地方商店街のシャッター化や、それと同時にバイパスに聳える大店舗、といった画一化された日本の光景を見れば明らかである。そんな中、一つの小さな書店を利用し、その書店を好きで、その書店のことを考え、このように書く、ということは少なくとも京都のこれからの可能性であるのではないかと思う。その可能性は、京都をおもしろくしたいという意味を含むし、単純な言説で京都を理解させないための手段である。
私はまだ「三月書房」を知らない。しかしこれから知ろうとするだろう。

「三月書房」は京都という100万人都市においては単なる看過される小さな点なのかも知れない。しかし私にとって、私が住む町としての京都において、「三月書房」は看過できるようなものではありえない。

 私の個人としてのこだわりは、京都という町に、大きく寄与することは有り得ないが、多少ならずとも、ここで論じる意味はあると考える。
「三月書房」で本を買いたいという私の気持ちは、私が京都で生活をする上で欠かせないものである。

(C)かげもん 2006年5月記 (PeaceMedia2006年6-7月号掲載)
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