2008.12.14

『「労働」に抗する身体』 ハギハラカズヤ 
第4回 夜

 厳しい夜の冷え込みに冬の訪れを知った。暖かい日が続いたせいだろうか、気づかぬうちに今年も残りわずかになっていた。そんなとき身体に染み込んでいたはずの時間の感覚に狂いが生じたようで、不思議な気分になる。

 十二月ともなれば、中学や高校では学校行事もあらかた終わり、三年生の進路指導に熱が入る。勤めている塾でも学校での進路決定を受けて、生徒たちを一つでも偏差値の高い学校に合格させようと「追い込みモード」に入っている。Z高校に何人、R高校に何人…。これからが勝負だと言わんばかりに、先生たちは前のめりになって教室に向かっていく。

 子どもたちはというと、日々の会話からも不安の色を覗かせる。参考書を抱え持って問題集に向かう眼差しは、誰も寄せつけないほどの力を持っている。どの学校に入るのかが社会的な成功と不可分に結びついている学歴社会のなかでは、不安はただ、黙々と答案を書きつづける以外には取り除けないかのようだ。自分という存在が周囲から認められるのか、これから社会で生きていけるのか、その答えは受験の先にしか得られない。疑う「わたし」を胸に仕舞いこみ、彼らは必死に生きのびようとしている。

 中学生にとって進路の選択というのは、人生で初めて未来を選び取ることなのだと思う。生まれてからというもの、周囲に支えられ、与えられたものを体内に摂り入れてきた子どもは、それを疑うことで自分と世界とのかかわりを問い直し始める。暴発しそうな身体とギリギリの交渉をしながら、彼らはいま、ふたたび信じられる世界を手にするその日を夢見て闘っているのだ。

 教室の壁に色を塗ったり、コンパスでガリガリと穴を開ける生徒がいる。
 模擬試験の順位表だけが張り出された無機質な白壁は、彼女にとって一つのキャンバスだったのかもしれない。そんなことは自分の部屋でしろと塾長は叱るのだが、授業中の彼女は自分らしさを求めて、心に色を塗りつづけていたのだろう。教室は引きこもるべき自分の部屋だった。

 塾にやってきては暴れまわる生徒がいる。
遅刻して入ってくると、いつものようにお菓子の袋を開けてお喋りを繰り広げ、また出て行く。先生たちは怒りに震えながら職員室に戻ってくる。しかしそんな彼が、最近授業が上手くできないと悩んでいた若い先生を励ましたことがあった。将来「学校の先生」になりたいと思って塾講師のバイトを選んだ彼女は、現実に打ちのめされ、もう自分の夢をあきらめようと思っていた。「俺たちも苦しいんだから、オマエもあきらめんな」。教師の言葉を聞こうともしなかった生徒が、一人の人間の痛みを自分と重ね合わせて言葉を紡ぐ。その声からはきっと、複数の夢が響きわたっていたのではないか。

私も若いころは、たくさんの夢を見たものである。あとではあらかた忘れてしまったが、自分でも惜しいとは思わない。思い出というものは、人を楽しませるものではあるが、時には人を寂しがらせないでもない。精神の糸に、過ぎ去った寂寞の時をつないでおいたとて、何になろう。私としてはむしろ、それが完全に忘れられないのが苦しいのである。その忘れられない一部分が、いまとなっては『吶喊』となった、というわけである。

(魯迅「『吶喊』自序」)

 教室で魯迅を読んだ。
 眠れない夜がある。暖房の切れた暗い部屋で、「わたし」は冷たい息を吐きながら、過去に思いを巡らせている。灯りが失われたその場所は、壁と窓との区別を知らせてはくれない。若き日に見た、日本の植民地支配に抵抗すらできなくなった中国民衆の虚ろな表情が、壮年となった魯迅の脳裏に浮かんだように、職場や学校の同僚から向けられた冷淡な視線が「わたし」を過ぎっていく。言葉が誰にも届かない。行く宛てのない怒りに締めつけられる。闇に包まれた部屋が、まるで鋼鉄のような現実になり、「わたし」は襲いかかる悲しみに麻酔を打ち、ただ「死」を待つことを選ぶ。

 一人の生徒が、魯迅のこの一節を切り抜き、ノートに貼っているのを見せてくれた。彼女は、吹き荒れる嵐のような存在だった。家族、学校、友人、そのいずれにも苛立ち、やがて訪れるであろう受験の日を前に、大人になることを拒絶するように暴れつづけた。絶縁してしまった親友との思い出が、いまの彼女を繋ぎとめ、生かし、そして苦しめている。そんなこと忘れなさいという声を振り払おうと、彼女は必死に叫んだ。急かされるように大人になるのが、耐えられなかったのだ。補導された日、彼女は自分が何に苛立っていたのか気がついた。それは受験競争という「大人の論理」に抵抗してきた自身の、絶望の深さを知ることでもあった。『吶喊』は彼女の叫びだった。

 学校に存在する意味があるとするなら、子どもたちがゆっくりと大人になる時間を手にできることにある。だが「学力」というわけのわからない言葉が、大手を振っている。学校は勉強ができない人間のために存在するのであり、悩みや苦しみに言葉を与え、分かち合う時間こそが、教育だったはずだ。それがいまや勉強ができなければ学校に来なくていい、悩んでいる暇があれば勉強しろというのだ。こうして現実は出口のない鋼鉄の部屋と化す。

《いま、大声を出して、まだ多少意識のある数人を起こしたとすると、この不幸な少数のものに、どうせ助かりっこない臨終の苦しみを与えることになるが、それでも気の毒とは思わんかね》

《しかし、数人が起きたとすれば、その鉄の部屋をこわす希望が、絶対にないとは言えんじゃないか》 (魯迅、同上)

 吶喊が身を揺すった。ぼくたちもまた、眠れない夜を生きている。

ハギハラカズヤ 2008年12月記
(PeaceMedia2009年1月号掲載)
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